午後

日記

食事から目を背けている個人的雑記

食事は種類豊富だけれど飲み物に種類は少ない。分かりやすく流通していない。塩ラーメンと味噌ラーメンの味の違いは分かる。壁だ。アールグレイダージリンの違いなど誤差だ。階段だ。ラーメンに塩コショウをかけてもスパイスにしかならない。紅茶に砂糖を混ぜれば皆同じじゃないか。私は飲み物が好きで食べ物が得意じゃない。なぜ?過去を追想しよう。

 

物心ついた時から何かしらを飲んでいることが好きだった。「喉が渇いた」という言葉の意味を理解していなかった。今でも理解できない。

隙があれば喉が渇いたといってお茶やジュースを飲んでいた。なんだかいい気分になる。

 

起源

給食はおいしくなかった

   小学校。知らん食べ物が蠢いている。教師が野菜を食えと言う。給食を残すと目立つ。茶々を入れられる。親に「給食食べないからお腹空くんだよ」論破された。教師が定期的に開陳する。「お前らは幸福だ。給食を食べれることに感謝しろ」「心込めて作ってるんだよ残すなんて人でなし(冗談)」おっしゃる通りだから牛乳で知らん食べ物を流し込んで表向きいい感じにしておいた。

    周りを見た。お昼休みまで給食を食べている人間が白い目で見られている。怒られている時もあった。「おいしい」よりも「まずい」という意見の方が建設的で聞いていて面白かった。私の目には給食は淀んだものに写った。

    驚いたことに給食を楽しみにしている人間がいるらしい。給食のために登校している人間がいた。揚げパンあげたら喜ばれた。これからもあげようと思った。宇宙人だ。まるで理解ができなかった。興味深いから講座開いてよ。開陳してよ。拒否られた。話せるようなものでは無いらしい。

    以上のことから給食はまずいことがインプットされた。牛乳が無いとまずいので牛乳を合理的に好きになった。手の届く範囲にある飲み物が君だった。飲み物を飲み続けながら食べることが習慣になった。味覚を粗雑に扱った。家でインスタントラーメンを食べてた。給食と比べると美味しかったんじゃないかな。自発的に食べているから。煩わしい説教も比較もイレギュラーも存在しないし。

 

世の中の基準に納得いかなかった

    世の中の人間の味覚はなんて高尚なのだろうかと奇特だと驚愕した。修学旅行などでホテルや旅館で食事をする機会があった。レベルの高い給食だった。給食よりも知らん食べ物が蠢いている。毎日の給食でレベル上げをしていても完食はできなかった。知らん食べ物に妙な味が加算されているからだ。焼きそばパンを見つめる。焼きそばとパンを別々に売ってくれないかと思う。シンプルイズベスト。親や大人は言う「だしが利いている」「この魚活きがいい」「白米がおいしい」言えないじゃないか。「まっず。変な味。」って。子供だった。「金を払ってあげているのになんて言い草だ」「せっかく高い金払ってるのに残してるよ。いっつもお前メシ残すからなー。」「無理して食べなくていいよ。吐いちゃうし」私は味覚を呪った。ホテルや旅館について行くことに罪悪感を覚えた。

    他人の口から発する「おいしい」「ここの料亭は美味い」が呪文に聞こえた。よく聞かれる。「おいしい?」って。「オイシイ」と答えておくことにした。まずい。インスタントラーメンの方がおいしいって回答したら生意気だからだ。インスタントラーメンがおいしいんじゃない。苦痛がないからおいしい認定をしている。

食事そのものに嫌悪が沸いた。高尚な料理は水で流し込んでも押し寄せてくる妙な味。横隔膜が痙攣する。口の中に食事が戻ってくる。水で流し込む。完食できない。眉を顰める。閉口する。インスタントラーメンは義務になった。インスタントラーメンを食べなければ倒れるからだ。顔色が悪くなるらしいからだ。インスタントラーメンの味が煩わしくなった。食事を出されたくないと拒絶した。食事をするくらいなら食事を減らしていかにふらふらしながら生活すべきか、を考えた方が楽しい。開き直った。

 

食事めんどい

印象深い出来事があった。高級料理を食べる機会に恵まれた。

なんて料理だと主観が悲鳴をあげていた。「残せる」という自由が存在しないからだ。残したら、給食好きな人間に譲ることなく破棄されるからだ。給食好きな人間に救われていたんだ。飲み物で味覚を無かったことにして鼻をつまんで食べた。義務だったからだ。悔しかった。顔に態度に出したくなかったのに。力量不足。拷問だった。残した。

高級朝ごはんの直後に、知人の願いで高級洋食ランチを食べることになった。そんなに食べられない。参加したものは全員何かしらを残していた。「お口に合いませんでした……?」と従業員に悲しい顔をされた。食べなければ、破棄される。過去が蠢く。「せっかく高い金払ったのに」「勿体なかったね」「おいしかったね」「心込めて作ってるんだよ」最善は尽くした。デザートは夏休みの宿題を最終日に執り行う味がした。私は諦めた。同時期、インスタントラーメンをお湯を入れずにそのまま食べてみたことがある。意外と腹は満たされる。生命維持の為の努力だ。誰か開発してくれ。食事という概念はそろそろ盛者必衰の頃だとは思わないかね?「おなかいっぱいサプリメント!1日1粒で、3日は動ける!無味無臭!全30粒!10万円で発売中!」なんて健全なんだろう。私だってふらふらしたくてかまちょしてるんじゃない。

 

実験

声高に美味しいと評判の麺屋だった。そこでバイトしていた。とてもしごかれた。約3.4年前のことだ。たまたま張り紙を見つけたから応募した。1部の日付で働くとまかないとして1品食べることができた。雇用主の人間性は好ましくなかった。毎日のように覚えておきたくない言葉を吐かれ続けた。人格否定というやつだ。センターに駆け込んだら取り合ってくれそうな内容だ。半年でやめた。バックれた。まかない食事は食事に対して強制も説教も存在しなかったから、嫌な気分にはならなかった。「おいしい」ということにしておいた。インスタントラーメンと同じようなことだ。

バックれて数年が経つ。実験として再び同じ料理を食べた。何日か通ってみた。インスタントラーメンのように義務になってきた。安心。変なものは無い。イレギュラーも叱責も飛んでこない。果たして、これは「おいしい」なのだろうか?相も変わらず水で流し込んでいる。達成感と履き違えているのではないか?「苦痛に耐えるために、私はこれだけたくさんの水を飲み干しました!!」誇示ではないか?性格が歪んでいるんだ。達成感を覚える。水ガブガブ飲み干しつつ食事をすることが。無意識で計算する。「あと□□杯飲めば食べ終わるかな」目的を履き違えた。実験;「思い出補正のおいしい麺屋はおいしいのか?」結果;「水で達成感を得ることが楽しい」

 

食事観

今ではかつて小学生の頃好きで、ご褒美だったポテトやラーメンやおかしが20越えの今では義務に映る。昔と違って好きな時に好きなように食べれる自由。鳥が地面ではそんなに歩けないから飛べるように不自由があるから自由に羽ばたけるのさ。ご褒美で存分に味を知っている、食べ慣れたポテトやラーメンやおかしじゃないと、苦痛が生じる。イレギュラーで叱責が飛んでくるからだ。年齢を重ねるにつれ腰が重くなり新しいことに手を出せなくなる。

 

食事に嫌悪が芽生え出してから、顕著としてドリンクバーに励むようになった。常に何かしら飲み物を飲んでいないと落ち着かない。朝に水を飲むと気分爽快になるらしい。血の巡りが良くなるらしい。オカルトじみたピグマリオン効果でメンタルを調整させている。ジュースに飽きたら烏龍茶。お茶が渋く感じたらジュースに帰る。おいしい麺屋よりもファミレスのドリンクバーだ。花より団子。飴と鞭。私の人生で食事は私を痛めつけ飲み物は私を癒した。好きな時に飲めるから自宅よりも居心地が良い。麻薬のようだ。外出して自動販売機を見つけると倹約しているのについ買ってしまう。隣に飲み物がないと不安に駆られる。人生破滅の予兆だ。

 

なぜ飲み物が好き?

ここまで書けば簡単なことだ。押し付けられたことがないからだ。食事には会話が生まれる。飲み物は影に隠れる。「ここの烏龍茶がほんっとうにおいしくて、つい通ってしまうんだ」といった話は聞いたことがない。コーヒーやビールやワインとなれば話は違うのだろう。ドリンクバーに並ぶ勇者達は一番に輝くことが無い。添えられるもの。当たり前のことだから。メロンソーダを好む友達が多い。メロンソーダガチ勢は聞いたことがない。専門家として突き詰めている訳では無いからまずいもおいしいも存在しない。リラックスして話すことが出来る。食事ガチ勢は多すぎる。「おいしいよね!」「う、うん……(変な顔)」バレる。

 

リーズナブルじゃないか。ブランド物の服やソシャゲを存分に楽しむためには5桁の額が必要だがこちらのドリンクバーは3桁ですむ。1日200円として毎日通えば6000円。飽きる。1週間に1度程度でいい。今の所。飲み物中毒に溺れさえなければ。インターネットで炎上も起こさないじゃないか。安全だ。歴戦の、時代の洗礼を超えたドリンク達だ。全員殿堂入りしている。そこに比較などない。古き良きドリンク。王道人気のコーラ織田信長、コーラの応用メロンソーダ豊臣秀吉、安定のウーロン茶徳川家康。抱き枕のような安心感。私にとって食事は添え物だ。セットで頼めばドリンクバーが安くなる。うっ、経営戦略にハマった。ドリンクバーを拝みに行くのだよ。

 

食事から背けて飲み物に依存して流し込む。知人に「おいしいから」と善意で薦められる。私は物心ついた時から食事から目を背けて生きてきた。何もかも飲み物で流し込めば同じだと目を背け続けていた。そんなふうに生きてきたと告白するには親密度が足りない。そんなことは聞いていない。味を鑑賞しようなどと思いはしない。できないのだ。流し込めば善意を無下にしませんでしたと証明できるような気がしたから。命を頂く「いただきます」。それを苦痛に耐え兼ねて流し込むとびきりの冒涜背徳。食欲がわからない。食べること自体、逃げてしまいたい。受け入れられない。私は食事を善意で進められない。無条件に「おいしい」と信じたことなどない。食事を愛していないのだ。

 

今の状態が継続すれば、これからも食事を愛すことは無い。飲み物に逃げ、味を無下にする。よく訝しげな視線を送られる。「沢山飲むね」少なくとも私の食は世間の平均とズレている。無理くり探せば非常識こと私の常識が通用する世間を見つけることが出来るだろう。どうせ車輪の再発明だ。見つからない方がおかしい。逃げられないこともある。3大欲求に嫌われたら苦痛と結婚しなくてはならない。愛さなければならない。苦痛でも、付き合っていかねばならない。

 

食事は3大欲求で1番身近に楽しめる趣味だ。性欲。無い(強がり)。人間が必要。贅沢だ。睡眠欲。微妙(強がり)。眠気は有限だ。贅沢だ。よって不規則に食事をしている。得体の知れぬ渇望がそこにはある。腹が空いて食べるのではない。味を無下にし食べると「食べなくともいい」と安堵する。食事から逃げていればいずれ倒れるからだ。恐ろしい。倒れたら、そこまで食から逃げ続けたら自信になってしまう。1度倒れたら誰かしらに食事を強要されるだろう。想像上の机上の空論にすぎないが、食べたくないが胸を埋めつくしそうだ。はっきりと、客観的事実において「私は食事が好ましくないのだ!」と刻印されてしまうような気がしてならない。自信に変わる。もうそこまできたら戻れなくなる。人の話を聞かなくなる。どの言葉も異国語に聞こえてしまう。うにゃうにゃ言っている分かり合えない代物だと開き直る。

 

追記

食べる時は倒れることを恐れて、かき込む。満足する。周りにはインスタントラーメンや、ありふれた、食べ慣れた腐れ縁に囲まれる。食べ慣れない妙な味も嫌になる。

食べ慣れたトマトを1口。このかつて嫌いだったトマトがなければサラダは美味しくなるのに。顔に出なくなった。処世術が身についた。倒れそうになるまでしばらく食べないからガツガツと食べる。喉につまる。水を飲む。無意識の癖。そこに、水が無いと、怖い。

食事に飲み物があるのはおまじないだ。「こんな非道で酷い真似を許してくれるかね!?お命頂くのへったくれもない食べ方!でもそこに飲み物がある!許された!」特に飲み物が私を不快にさせた思い出がない。私の飲み物は神なのかもしれない。私の道徳観の無さに業を煮やしついに顕現なされたのかもしれない。飲み物依存の食事。まあ、オカルトだが、適当に神に感謝しておこう。水で吐き気の催すトマトを無理やり流し込み続けてトマトを真顔で食べれるようになって「これは、どれどれがどうでおいしいのか?」などと余裕が産まれたのだ。

 

本に書いてあった。「インスタントラーメンのようなものを食べると味蕾が鈍る」らしい。私は鈍っている。どんどん鈍くなっていくらしい。先日食べたことの無い料理に挑戦した。味がした。物凄い時間がかかった。味わないから高速で食べられるのだ。勘違いじゃなかったのか。味わうとは、こんなに嫌なものなのか、いや、ずっと目を背けていたから、恒常性が失われることに抵抗があるだけだ。