午後

日記

雑記 主観とは…

読書。読むの遅くなった。
一冊を読了すんのに2週間くらい?
いい加減に読めば3日で読めるんだけどね。
貪るように読めば1日で読めるんだけどね。

過集中から注意力散漫に。

↑こうやって読むと忘れちゃうんだよ。一冊30時間くらいかけて読んでいるんじゃないよ。1日30分、30pしか読めないんだ。35pを超えると、読み方が変わってしまう、いや、戻ってしまう感覚を覚える。また忘れちゃうぞ、って過去の私が脅しにかかる。だから遅いんだ。趣味が読書とは言い辛いね。1日の時間は読書以外の時間が大半を占めているから。穿てば「ファッション読書家じゃないか」とも見えるね。構わないよ。

一応3年前くらいは1日で読めるように読んでいたから余裕はあるんだ。何か即座に読み負えなければならない義務が生じたら以前のように貪り斜め読みし情景描写をすっ飛ばし展開へのワクワクする熱量だけで読了すれば、早く読める。そういう、趣味じゃないけど、選択肢として残されているからね。忘れちゃうけど無駄ではなかったよ。

・昔の読み方(前者)
あらすじを調べない
絵で読むか決める
気になる単語があっても無視、想像で補間
つまらない所は飛ばす
合わなければ50ページ飛ばし飛ばしで読む、それでも合わなければ読むのを辞める。

特別面白ければ読了に1日かかり、普通であれば3日かかる。難しい内容であれば5日以内。

乱雑で素直で正直な読み方。

・今の読み方(後者)
あらすじを調べる
作家を調べる
レビューを調べる
気になる単語はググる
情景描写も伏線かもしれないから退屈だけど読んでいる、目が滑るのを阻止する。
だいたい読んだ後に何かしら感想や要約を書いておく
合わない合うは存在しない。読めないのは自分自身の能力不足。本が嫌いなのじゃない。本が読めない自分自身の劣等感を本に投影してストレスを緩和させようとする心理。

丁寧で自己犠牲に近くある意味嘘つきな読み方。

両者の読み方に甲乙つける気は無い。一長一短。
前者は楽しく健全に読書に励み、他者との会話も弾むが何年かしたら内容を忘れる。あまい。完全には忘れていない。よって久しぶりに読んだ本に再開しても読むことははばかられる。展開知っているから。展開への衝撃だったりは、克明に覚えている。重要なことは感情が覚えててくれる。だから難しいことは考える必要が無い。安心して好きを尊重して読むといい。

後者はやや苦痛の生じる不健全な読書。にがい。「読めなくなった」劣等感が付きまとう。30ページ以上読めるだろう、と過去の自信が訴えかけてくる。だがそれ以上めくる手を進めることははばかられる。ちゃんと覚えておきたいから。無駄な情報まで覚えているのかもしれない。だがこれが今の私に出来る読書だ。

なぜ本を読め、と世の中は言うのだろう?本を読まない若者は健全で明るい。本を読む私は陰鬱だ。読み方を後者に切り替えてから、より陰鬱な傾向が増した。健全で明るい若者に私のような知識が植え付けられたら便利なのに、という願望なのだろうか。都合がいいな。そうなりたい。私は暗い。私だって本を前者の方法で読む前は明るかった。何も知らないことを知らなかった。

この世の森羅万象全てを知ることは出来ない。知るべき時に、知れば良い。無駄に知識を詰め込めば、健全なバネは弾力を失う。無知で、陰鬱な両者の欠点を身につけた人間が出来上がる。偏った知識を身につければ、世界は歪む。名著であっても歪む。本なんか見るだけで嫌悪感が湧くなら即座にやめた方がいい。その嫌悪感が沸いた君、本なんか読まなくていい、適者適存だと思うな。苦手なものを伸ばすより、得意なものを伸ばせばいい。意思が嫌がってるんだから尊重してあげよう。私だって嫌だ。10人位の盛り上がってる前でカラオケ歌えって。命令ならやぶさかではないけれど、ちっとも楽しくない。

今の読み方だと、ちゃんと覚えていられる。遅いから。だから読む際に徹底的にレビューや著者を調べる。怒り出すからね。「こんなつもりじゃなかった」って。だが、窮屈だ。
何年も読めば自身の論理に従って早く読めるのだろうか。早く読んで読み捨てすることからは卒業したはずなんだ。無理をすれば退化する。焦燥に駆られる。ずっと、こんな、遅くて、やる気のないように見える読書しか私は出来ないのだろうか?この、読書に効率を求める姿が間違いだと思う。
読書は、対峙だ。いつだって本番でないといけない。この弱い人だから、練習感覚で体力を貯めて、この人は強いから本番感覚で本気出すぞ!は失礼だと考える。その私が侮っている弱い人は、わざと装って、強者を食い尽くす頂点に立つバケモノなのかもしれない。それなら、見たいじゃないか。未知を知りたくて不快感を伴いながらも読書をしているんだ。バケモノ、未知、そのものじゃないか。犯人が自分であったように、予想を覆されるのは楽しい。

自分の意思自体は前者の読み方をしている方があった。本から何かしらを学び取ろうとする姿勢が皆無であったからね。何かしらを書くという事もしなかった。性にあわなかったんじゃないかな。
今の読み方、ときどき自分が誰なんだかよく分からなくなる。小説を読むと、思いを忘れないように文章に固めておくと、ちょくちょく一部が好きな曲の歌詞だったり小説の引用だったりしてしまう。微々たる者だ。一々口を挟み好きな曲紹介タイムをしているのでは無い。言いたいことを言うために、使わざるおえないんだ。ほら、歌詞を引用しないで自分の言葉で語りなよ。私は誰だ?本を読むと何かしらが頭に入ってくる。以前のように、100パーセントの私では無い。他人の言葉を借り続けている、ダサい人間なんだ。ああ、私はだれなんだろう。
後者の読書を続ける。いつか、私の言葉は全て借り物になっちゃうのかな。日本語だって借り物だ。借り物の借り物。トートロジーだ。読みやすい文章を書く基本に、「同じ単語を入れると、人間は目が滑ってしまうように作られています」と書いてあったような気がした。トートロジーを排除するのが読んでいて面白い文章の基本。目に見えないトートロジー。排除するには、このいろいろな言葉が頭で奔流してまぜられる読書方法を辞めなければならない。そんなのやだよ。馬鹿の一つ覚え?以前の100パーセントの私なんかよりも、今のトートロジーに塗れた方が、知的じゃあないか。退屈だ。今の私が好まない読書方法を蒸し返すだなんて。

こんな考えても意味もないことを考えるということは読書に向いていないんじゃないか。まあやることがないから本を読んでいる。

前者の読み方で読めなかった本が読めるようになった。前者だと無理だと見切りをつけて投げた本を読めた。前者の読み方だとめっちゃ面白かった本が、そんなに目先の快感を覚えられなくなった。

向いているってなんだろう。向いていないってなんだろう。苦手って、得意って全部全部全部全部主観じゃないか。自分の意思で言いきらなければならないといけないではないか。模範解答なんて無いじゃないか。私が責任持って言いきらないといけないじゃないか。全て責任がのしかかって来るじゃないか。まるで仕事じゃないか。私には、好きも、嫌いも、得意も、苦手も、無いのに。楽しいって1時の快楽。楽しいと思った瞬間、楽しくなくなる。定義をするのは他人。青春している時に「私は青春をしている」言わないだろう?他人に「青春だねえ」冷やかしをされる。好きな物だって、自分自身では分からないもの。自己紹介だって苦手だ。自分自身が好きや嫌いを定義するものでは無い。他人からフィードバックを受けて認識するのだ。

これは過集中のあまり30ページほどで疲れてしまうのか?注意力散漫なあまり続かない?

注意力散漫なあまり小説を読み飛ばして多読できた?過集中なあまり一時で読了できたの?

主観、憎い。簡単に操作できてしまう。